週刊彩の国コラム page 12.
暑くて有名? “ラグビータウン”熊谷・夏の三題
海からも山からも遠く、関東平野のど真ん中にある熊谷市。気象情報で埼玉県の気温を測るときは(東京に近い)浦和よりも、熊谷のほうが代表値としてよく採用されます。そのせいか「埼玉から来ました」と言うと、「あそこも暑いでしょう」と九州の人に同情されることもしばしば。そのくせ冬は“赤城おろし”のおこぼれを頂戴して寒風が吹き抜けるという、まぁメリハリのありすぎる気候ではあります。
それはそれとして、熊谷直実の出身地でもあり、中山道の宿場町としても栄えた、埼玉県北部の、そして北関東の要地・熊谷市の“夏”を、いくつか拾ってみました。
★関東一の祇園・熊谷うちわ祭
今を遡ること400年余、京都・八坂神社の分社が、熊谷の愛宕神社に合祀されたことが発端で、京都の祇園祭の流れをくんで寛延3(1750)年頃から各町が一斉に参加したといわれます。本家・祇園祭と同様、元来は疫病退散を祈願するお祭りでしたが、いつの頃からか五穀豊穣・商売繁盛のお祭りとして年々盛んになっていったのです。
市街12ヶ町の屋台・山車が7月20日〜22日の3日間、熊谷市の中心部を曳きまわされ、街角ごとに熊谷囃子が鳴り響きます。市役所通りと星川通りが交わる交差点は「お祭り広場」と名づけられ、祭りの期間中は八坂神社の臨時出張所ともいうべき“お仮屋”がここに設けられます。
もともとは、期間中に各商店が買い物客に赤飯を振舞っていましたが、ある料亭が江戸から渋うちわを取り寄せて配ったところ意外な好評を博し、後にこれが各商店へも広まったので、やがて「うちわ祭」と呼ばれるようになりました。
今年最大のトピックは、初日(20日)夜の「初叩き合い」に、全町の山車・屋台が集結したこと(うちわ祭史上初)です。日暮れとともに12台の山車・屋台が熊谷駅北口へ集まり、ロータリー中央のタクシープールにずらりと居並び、お囃子の競演が繰り広げられました。ここですごいのは、からだ全体を包み込むお囃子の迫力もさることながら、路線バスがロータリーの最外周を通常どおり出入りし運行する点。ほかに折り返し場所を確保できないため、仕方ないのだとか。ちなみに、緊急車両と定期路線バス以外は進入禁止でした。
★北関東随一の規模・熊谷花火大会
熊谷の花火の歴史は、市制施行の翌年・昭和9年8月18日に「熊谷花火大会」が開催されたことに始まります。その後戦時下の中断を経て、昭和23年9月11日に「大熊谷復興花火大会」が地元露天商組合の主催で開かれ、市役所・商工会議所が後援しました。これを第1回と数えて、観光協会の主催により毎年8月の第2土曜日(雨天等の場合は翌週土曜へ延期)に開催されています。
会場は熊谷駅南側の荒川河川敷で、駅を出てから土手を越えるまで徒歩10分足らずの手近さ(当日は人また人でそんなに速く歩けませんが)なので交通の便もよく、45万人の観客が集まります。
(写真右:昨年の熊谷花火大会より⇒)
今年(2000年)も、8月12日(土)に予定されていましたが、台風接近により天気予報が雨と報じていた為、19日に延期されました。来場される方は、必ず往復切符を買って、電車で来ましょう。
★終戦前日に空襲を受けた町……1945年8月14日の熊谷
熊谷の市街地の真ん中を東西に貫く中山道(国道17号線)や、熊谷駅から北へ伸びる“さいたま博通り”、市役所前から荒川方面へ南北に走る“市役所通り”、そして鯉が遊ぶ星川の両岸を挟んで対向する“星川通り”など、熊谷の市街地の道路は道幅が広くゆったりしていて、特に17号線は市街地から郊外へ出ると逆に車線数が減少するくらいです。江戸時代からの古い宿場町なのに道幅が広く取れるのは、太平洋戦争で空襲を受けたからかもしれません。
熊谷市は、太平洋戦争が終わる前夜:1945年8月14日に ……ポツダム宣言の受諾を決定し、昭和天皇の“玉音放送”の録音が終わっていたというタイミングに……、本土最後の空襲を受けました。同夜、近隣の行田・深谷・伊勢崎にも焼夷弾が落とされ、行田で5人・深谷で2人・伊勢崎で29人が命を落としました。
米軍は熊谷を、埼玉県内で唯一の第一攻撃目標に選んでいました。市街地西郊の三尻村(現:熊谷市三ヶ尻)には陸軍飛行学校(現・航空自衛隊熊谷基地)があり、また市街地に分散する住宅や工場が、焼夷弾爆撃に適すると判断されたのです。
当時は市街地でも街路が細く、南の荒川桜堤や北の肥塚・箱田・中条方面へ逃げ切れなかった罹災者が、市の中心部を流れる星川に飛び込んで熱風や火の粉をしのごうとしたのですが、川べりに建つ二階家が焼けて星川に覆い被さるように崩れ落ちるなどして、星川だけでも百人前後が犠牲になりました。
熊谷市では、犠牲者 234人、罹災者 15,390人(全人口の28%)、全焼 3,630戸、負傷者 3,000人余り。市街地の4割が焼け野原になりました。明くる朝に終戦を知らされた熊谷市民は、「あと1日、いや半日早ければ……」とやり場のない悔しさ・怒り・哀しさを抱きながら、終戦の報を聞いていたといいます。
当時、東京で空襲に遭い、熊谷に疎開していた歌人・鹿児島寿蔵 氏が、こんな和歌を詠んでいます。
東京の吾が家の焦土見るよりも こころは痛し燃ゆる熊谷
毎年8月16日・盆の送り火の晩、戦後まっすぐに改修された星川では平和を願う「灯ろう流し」が行われ、色とりどりの灯ろうが切なくもあざやかに、川面にともし火を映すのです。
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