臨海亭東雲・自己紹介(2010年12月に修正)

NEW!キッチリ自己紹介したい臨海亭東雲さんに100の質問(2010年12月25日)

氏 名 
性 別
メールアドレスrinshino@excite.co.jp
rinshino@s6.xrea.com
  等、ぜんぶ「rinshino」がつく。
芸名・ペンネーム臨海亭 東雲(りんかいてい しののめ)
生年月日昭和52(1977)年1月16日 (山羊座)
動物占いコアラ(静かなる策略家、夜行性、ですって)
家電占い電池(めったにいない癒し系だそうですけど)
山手線占い有楽町(おバカなふりして頭はクールな運つかみの達人、ってウソだろ)
血液型A型だそうです
現住所埼玉県鴻巣市
学 歴某大学某学部某学科2000年3月卒業
所 属東京都内の某印刷会社
身長/体重約179cm/約68kg
資格・免許中型自動車第1種運転免許(8t以下)、DTPエキスパート、エコ印刷プランナー、漢検2級
好きな色/数字 緑  すみれ色 /8
趣 味鉄道研究・ラジオ聴取・国内旅行・落語 etc.
好きな食べ物中華料理全般・甘味一般・カキフライ
苦手な食べ物みょうが
好きな音楽Perfume・CASIOPEA・内山田洋とクールファイブ・松谷卓・ほか
好きな鉄道京浜急行電鉄東京臨海高速鉄道・わたらせ渓谷鐵道
好きな列車種別快速特急・通勤快速
愛読書最近は本を読まなくなっちゃったねえ。
たまに手に取るのは『時刻表』ぐらいかな



臨海亭東雲・略歴(2010年末に加筆修正)

1977年1月16日9時35分(0歳)
栃木県大田原市の赤十字病院で生まれる。やたら北風が強い、快晴の朝だったらしい。
1978年(1歳)
神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)へ引っ越す。
高台のアパートのベランダから、高架を走る東急田園都市線がよく見えた。また、買い物や遊びに行く時に、いつも東急線で出かけていた。母親によれば、この頃から鐵分の蓄積が始まったという。
1983年(6歳)
東京都町田市内の小学校に入学。
遠足のバスの中で『北酒場』を熱唱、華々しいデビューを飾る。
1984年8月(7歳)
埼玉県鴻巣市(現住所)へ移転。
自転車の前かごに行き先表示札をつけて「ひとりバスごっこ」をやっていたという、猛烈にひねくれた少年時代であった。
1989年4月(12歳)
中学校に入学。
同級の男子が女子から名字呼び捨てだった中で、なぜか私だけ「しろーさん」とさん付けで呼ばれていたことだけがひそかな自慢(=過去の栄光)だった。
1992年4月(15歳)
某大学某高等学院へ入学。
高校選びのポイントは、(1)大学の附属校である(2)山手線・埼京線に乗らずに通える(3)できれば乗り換え回数は少ないほうがいい、というふざけたものであった。
1993年5月(16歳)
クイズ研究会に入会、代表取締役会長になる。
ただし、会を代表するのは部長であり、その他に代表・主将・書記長などがいた。肩書き乱立状態。
1993年11月(16歳)
文化祭の実行委員会の書記として、うろちょろ働く。
当日はボーイスカウトの制服を着ていたが、後日英語の先生から「君、たしか軍隊のコスプレしてたでしょ」と言われ、少々へこむ。
1994年4月(17歳)
文化祭の実行委員長に就任。
よせばいいのに名刺を作り、他校視察と称し、伊勢崎女子・前橋女子・熊谷女子・浦和西・淑徳与野など、あちこちの高校の文化祭に出没。某校ではカラオケでハッスルして流血(←アホ)。当日は紺のブレザー(≠制服)にネクタイを締めていたが、友人の家族から「あの人、何科の先生?」と思われていたらしい。ちなみに、見知らぬ女子高生に私の歳を当てさせたところ、「32くらいいってるよねぇ!?」とのこと。
1995年4月(18歳)
某大学某学部某学科へ進学。入学式当日に、鉄道研究会へ入会。ちょっと先走ったかなと思ったら、なんと先客がいた。
続いて、寄席演芸研究会にも入会。6月の初高座で『臨海亭東雲』を名乗る。
1995年秋
JTB出版事業局“Pブックス”第1弾『超クイズ&パズル 鉄道編』のためのクイズ問題作成を手がけ、4問採用される。各問題の文末に、「問題作成:臨海亭東雲と掲載してもらうことに成功。なお、“Pブックス”シリーズの第2弾は、まだ出ていないらしい。
1995年12月
MXテレビ「こちら通勤快善委員会」に、鉄研メンバーの一人としてゲスト出演。
翌年1月に放映されたが、その2週後に番組打ち切り(MXテレビ初の打ち切り番組となる)。
1996年2月(19歳)
日本テレビ系「午後は○○思いッきりテレビ」内“きょうは何の日”に出演。「列車の指定券の発券がコンピュータ化された日」だそうで、手書き発券とコンピュータ発券でどれくらい時間短縮できるか調べるために、東京から大阪までの少々複雑なルートを考える、というのが私他鉄研会員2名の役どころ。早大鉄研の名前は出さず、交通費以外のギャラは番組オリジナルテレカ“なんだろう”ロゴ入りペンセット
1996年9月〜1997年1月(20歳)
中学の担任の先生から市の教育委員会に推薦され、成人式実行委員会に参加。月1回程度の打ち合わせを仕切るくらいなら、と議長を二つ返事で引き受けてしまう。しかし他のメンバーからおだてられ、「成人者代表の抱負」をやることになってしまう。
1998年9月(21歳)
鉄研HomePageの制作担当をやっていた関係で、旅行地理検定協会から「鉄道旅行検定試験」のモニターを依頼される。そのときは鉄研の同輩や他校鉄研の方々も誘って行ったが、その後私だけが鉄道旅行検定のテキスト執筆などのお手伝いを続けている。
1999年6月(22歳)
鉄研の後輩の高橋君がいちかわエフエム(千葉県市川市)で担当している「汽車旅くらぶ」(金曜20:15〜21:00)にゲスト出演、鉄道旅行検定の話をする。出演記念に書き残した色紙には、筆ペンで「大和路快速」と大書し、スタッフにあきれられる。
1999年10月
前述の鉄検テキストの原稿料で、自宅にパソコンを導入。そして、HomePage公開へ。
2000年2月(23歳)
前年3月、寄席研の卒業ライブで初めて鉄道漫談をやったらウケがよかったので、「学生生活(特に趣味活動)の集大成」と大義名分を掲げて、臨海亭東雲最初で最後の独演会『笑う大総武線』お江戸両国亭で敢行。寄席研の仲間・後輩に手伝ってもらいながら、集客は見込みを下回ったものの、おおむね成功。終演後、両国界隈の飲み屋で打ち上げた後、高崎線最終列車:急行〔能登〕福井行で(寝過ごさず)無事帰宅。
2000年4月
ついに就職、社会人になる。どういう巡り合わせか、鉄道会社ではなく某印刷会社。一部では「落語立川流へ弟子入り」「いや、円楽一門へ」などという噂が流れていたらしい(本当に)。紙媒体だけでなく、WebやCD-ROMなどのデジタル媒体への展開もしているので、新入社員研修には「Webページ制作実習」というのがあるのだが、担当講師が当サイトを見て下さり、必要以上の絶賛を頂戴して恐縮中。
2002年1月
会社の労働組合の、当時の委員長(同じフロアにいる)から「旗開き(組合の新年会)で、落語を一席やってくれないか」と頼まれ、後先も考えず二つ返事。いざやってみたら、目の前の“観客”はすでに酒が入っていて、ご歓談の真っ最中。後ろのほうで必死に耳を傾けている人々も、だんだん耳を凝らすのが疲れてきたらしい。何より、やっている当人はさっぱりウケないので、だんだん空回り。人生最悪の高座であった。
2002年10月
会社の労働組合の青年部長を二つ返事で引き受けてしまう。“執行委員会”の議事録を毎回つけるのが青年部長の仕事だということを知ったのは、引き受けた2日後。そして12月末、年明け早々の“旗開き”の段取りをどうしようか思い悩み、年賀状どころじゃない。
2003年6月
日本印刷技術協会から、DTPエキスパート認証を受ける。
2004年5月
鴻巣市の実家を離れ、川口市で一人暮らしを始める。
2008年5月
川口の住まいの、2度目の賃貸契約更新が近づいたのを機に、戸田市へ転居。壁が薄かった。天井の明かり取りは夏の朝が暑い。
2008年9月
戸田市役所にて入籍。翌10月、親類・身内だけで挙式・披露宴。その翌日、妻が気疲れから高熱を出して寝込んだ。
2008年11月
池袋で友人知人を招いて結婚披露パーティー。私のたっての希望で夫婦漫才に挑戦、クライマックスで一部観客が感極まって涙ぐむというハプニングも。
2009年11月
結婚1周年記念事業として、リアル桃鉄(東雲杯)を開催。言いだしっぺの東雲とその妻の“チーム藤”が最下位。
2010年5月
妻の出生地のすぐ近所で築浅の中古マンションを購入、転居。ちょっと日当たりが悪い。
2010年8月
念願の、本家“リアル桃鉄”に参戦。朝が早いのと罰ゲームがエグいので、という理由で妻には自宅待機を命じた。

…以下省略、現在に至る。


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